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	<title>松坂法律事務所 &#187; コラム</title>
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		<title>弁護士松坂徹也のコラム(48)「人間の五感」</title>
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		<pubDate>Tue, 07 Jun 2022 02:13:16 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[人間の五感 新型コロナウイルスはいまだ終息には至っていませんが、長い期間に及んだコロナ禍のなかでの生活は、私達に色々なことを考える機会を与えてくれました。そもそも人間が生きるうえで、生活するうえで基本的に大切なものは何な [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>人間の五感</p>
<p>新型コロナウイルスはいまだ終息には至っていませんが、長い期間に及んだコロナ禍のなかでの生活は、私達に色々なことを考える機会を与えてくれました。そもそも人間が生きるうえで、生活するうえで基本的に大切なものは何なのか、今後これらはどのようになっていくかということです。</p>
<p>まず人間の誰もが持っている五感の観点から考えてみたいと思います。</p>
<p>人間には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感があります。この感覚は人間だけではなく他の生物にもあり、生物によって強度に差異があります。例えば、鳥の視覚、動物の嗅覚は人間のそれとは比べものにならないほど強力です。</p>
<p>五感そのものではないですが、人間には他の生物にはない、視覚、聴覚に関連する情報等を得る媒体のようなものがあります。それは言葉と文字です。言葉は、人間が口から発し、相手方が耳で聴くもの、文字はそれらを紙等の媒体に示すもの、聴覚、視覚にかかわるものです。言葉は、人間と人間とのコミュニケーションを作りあげるのに有用なツールで、文字は人間の思想や哲学を表現する手段につながります。人間はこれまで五感や言葉、文字を存分に使って豊かな生活を維持してきましたが、コロナ禍のなかで大きく制限されることになりました。</p>
<p>五感というものの大切さをもう少し具体的に考えてみたいと思います。</p>
<p>まず、視覚です。人間が人と接するとき、その人の目、鼻、口をみてその人の顔というものを認知します。次に、その人が話すときの表情、話しぶり、話すときの目や口の動き、口元の笑みなどをみて、その人が今どんな感情を持っているのか、何を考えているのかを認識します。</p>
<p>次に、聴覚ですが、これによって話す人の考えや意見、意思というものがわかってきますし、聴こえてくる声の具合、話しぶり、声の大きさによってその人のその時点での想いなどをさぐることができます。</p>
<p>さて、現在の私達の生活はどうでしょうか。</p>
<p>家庭内での生活以外の日常のほとんどがマスク生活ですから、初めて会った人の顔を憶えることはなかなか難しいです。又、相手の表情などが十分に見えませんので相手のそのときの感情を読みとることができません。声についてもマスク越しですから、聞き取りにくいことがありますし、声の具合から感情を読み取ることも難しくなります。</p>
<p>最近、リモートによって会議等を行いますが、これは直接のものではありませんから、視覚、聴覚の充足度は下がりますし、マスクをつけて行われる場合には、さらに状況は悪くなります。</p>
<p>次に、嗅覚と味覚ですが、外で飲食する際マスクを自由にはずせない、大きな声で話せないなど、制約がありますから、これらの感覚は十分に発揮できません。黙食というテーマが示されたことがありますが、それはこれらの感覚をさらに減らします。食事とは、楽しむものであり、一緒にいる人との会話を織り交ぜながら、食事をすることにその歓びがあるものと思います。</p>
<p>次に、触覚です。これが一番大事なことです。触覚とは、触れて感じることです。人間が生まれて最初に感じるもので、感覚のなかでは最も豊かと言われています。新生児は、生まれてすぐに裸のまま母親に抱かれることから、この豊かな感覚がすぐに身につくのでしょう。この皮膚感覚は、人間の感覚のなかでとりわけすごいものです。</p>
<p>膚と膚を触れ合わせるのは、ハグすることがその典型ですが、奥ゆかしい日本人はあまりそれをしません。しかし、日本人はそれに代わる五感を総合した独自の感性をもっています。</p>
<p>それは何かというと、人間同士の控え目であるが、そこに信頼や敬意などの思いを込めた態度、動きでしょう。日本人は欧米人に比べ口数も少ないし、表情も豊かではありませんが、それを補う、そして大切にしているコミュニケーション術を持っています。それは、両者間の距離感、そしてその距離のなかでのお互いのアンテナのようなものの触れ合いではないでしょうか。</p>
<p>我々はよく皮膚感覚、あるいは膚感覚、手触り感、当事者の熱量、込められた織り成す思いなどという感触を大切にしています。この感覚は、触覚そのものではありませんが、それに近いものでしょう。これに、視覚や触覚が相まって総合的な感覚となります。コミュニケーションのとり方としては直截的ではないですからあまりいいことではありませんが、以心伝心、あうんの呼吸、目くばせというものもそれにあたるでしょう。そして、この感覚が生まれ、それが保たれるのは当事者の距離のとり方、あまり近づきはしないけれども離れないという距離感がとても大事になってくると思います。ある人とのこれまでの関係を改めることを「距離を置く」と言いますが、この言葉がそれを示しています。何事にも控え目で、ストレートではない日本人にとっては、この距離感のなかで生まれる感覚、別な言い方をすると、他者の温度を身近に感じる感覚は、人と人とのコミュニケーション、意思の伝達、それへの理解など人間が人間社会のなかで生きていくうえで不可欠なような気がします。これも皮膚感覚に近いもので、そこで得られたものを共感力と言っていいのかもしれません。</p>
<p>そこで、コロナ禍のなかでこの感覚はどうなっているのでしょうか。まず、ソーシャルディスタンスと言われているこれまでとは異なる人と人との距離のとり方、密集、密接の回避、マスクの使用や黙食、画面の映像とスピーカーから出される声によるオンライン会話が中心となっている私達の現在の生活や仕事、これは五感の働きに制約がかけられた生活で、人間らしい生活とはいえないでしょう。又、コロナ禍のなか、家から外に出ること、とりわけ人間にとって必要な、変化のある非日常とも言うべき世界へしばし入ること、例えば、映画を見に行くこと、美術館に行くこと、音楽会に行くこと、いっときの人との触れ合いを求めて居酒屋やバーになどに行くこと、これらも人間生活では必要なことですが、それもままなりません。このことについて、感染症対策と経済活動の両立の名のもとに、事業者側への金銭的な援助や補償ばかりが語られ、人間にとってお金以上に大切なことへの問題意識に基づいた対策はあまりとられていません。</p>
<p>人間にとって五感というものがいかに大切であるか、一方で現状はコロナ禍のためそれが大きく損なわれています。このような状態が長く続くことは、人間の生活にとって、若い人達の今後の成長にとって又お年寄りの老後の快適な生活にとってマイナスであることを認識する必要があると思います。感性が退化したり、それが育たなくなってしまう恐れがあるからです。</p>
<p>五感のうち視覚と聴覚を失いながら、家庭教師の懸命の指導と本人の並々ならぬ努力のもと社会生活を送れるようになり、後に社会福祉活動家として一生を送ったヘレン・ケラーという人がいます。その人と家庭教師を主人公にした「奇跡の人」という１９６２年の映画があります。２人の苦労と頑張りを描いた映画ですが、この映画からも五感がいかに大切であるかを学ぶことができます。この映画の監督は、後にアメリカンニューシネマの代表作「俺達に明日はない」などを作ったアーサー・ペンで、ヘレン・ケラーを演じたのはパティ・デューク、家庭教師役アニー・サリバン役は、アン・バンクロフトでした。アン・バンクロフトは後に、これもアメリカンニューシネマ「卒業」でサイモンとガーファンクルの挿入歌で有名なミセス・ロビンソンを演じています。又、この「奇跡の人」は現在でも大竹しのぶや高畑充希の主演で舞台で演じられています。この作品が人間に示唆するものが大きいことから、長く演じられているのでしょう。パティ・デュークもアン・バンクロフトもすでに故人となられています。</p>
<p>コロナ禍のなかでの学校生活は、生徒にとっては学びの場、生徒同士や教師との間の触れ合いの場を損なっていますし、大学生にあっては学びそのものもさることながら、大人としての第一歩を踏み出すなかで、これまで接することがなかった日本各地から来た若者とのコミュニケーションの確立と直接の議論の場を喪失させています。これは人間形成にとって大きなマイナスといえるでしょう。年輩者にとっても活動の制約による刺激の喪失は、豊かな老後を送ることに大きなマイナスを与えています。</p>
<p>感染防止策の対極にあるものとして経済の活性化ばかりが指摘されていますが、それよりも大切なものがあることを十分認識する必要があると思います。</p>
<p>新型コロナウイルスには終息の気配があります。それはそれでとても嬉しいことですが、ここで提起したことはその後も考え続けなければならないと思います。</p>
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		<title>弁護士松坂徹也のコラム(47)「陸上男子400メートルリレー」</title>
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		<pubDate>Tue, 07 Jun 2022 02:12:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[matsuzaka-lawyer]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[陸上男子４００メートルリレー &#160; 東京オリンピック、パラリンピックが終了いたしました。開催については否定的な意見が相当ありましたが、それにもかかわらず開催が強行されたといえるでしょう。 オリンピックの意義につい [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>陸上男子４００メートルリレー</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>東京オリンピック、パラリンピックが終了いたしました。開催については否定的な意見が相当ありましたが、それにもかかわらず開催が強行されたといえるでしょう。</p>
<p>オリンピックの意義について色々と考えさせられましたが、終わってしまった今となっては、投じられた多額の費用が国民に重くのしかかってくる事実、一方でこのオリンピックで多額の利益を得た企業もあるという事実（この利益を生むシステムを祝賀資本主義というそうです）、これから赤字の負担について国と東京都の間でバトルが展開されるであろう事実を無視することはできません。</p>
<p>とはいえ、選手のこれまでのひたむきな努力、示されたパフォーマンスのなかには感動的なものが数多くありました。しかし一方で、勝利至上主義、メダル至上主義、過剰なナショナリズムには考えさせられるところがありました。そのなかでも、陸上男子４００メートルリレーには大きな違和感を感じました。この種目、前回のリオデジャネイロオリンピックでは２位でした。陸上の短距離は、日本人が世界の記録レベルから最も遅れている種目ですが、２位の大健闘でした。選手個々の走力は外国人選手にはとてもかなわないのですが、バトンをつなぐ際のスピードの低下を極力抑えることによって、走力の差を補い、これまで上位を占めてきたものです。これは、いい戦術をたて、努力をしてそれを実行するという日本人の得意分野ということでしょう。</p>
<p>今度のオリンピックは自国開催ということもあり優勝を狙いました。そして、国民の多くもそれを期待しました。もちろん、選手、コーチはじめ関係者はそれへ向かって最大限の努力を重ねたと思いますが、一方で大きなプレッシャーを感じたことでしょう。そして、優勝へと向かうため前回よりさらに高い戦術を企画しなければなりませんでした。バトンタッチ戦術を極限まで極めなければならないということです。バトンを渡す走者のスピードをぎりぎりまで維持し、バトンを受け取る走者の受け取り時のスピードを最高に近い状態まであげて受け取ること、そしてそれを「テークオーバーゾーン」内でやってしまわなければならないことです。これにはルール違反という大きなリスクが伴います。日本の選手は果敢にこれに挑みました。</p>
<p>しかし、結果は大失敗で、第３走者の桐生祥秀選手はこの種目のみの出場でしたがバトンを手にすることも走ることもできませんでした。この結果について、選手の１人は「勝負にいった結果」と言って悔しがったものの、スポーツに参加するものとしてこれでよかったのだろうかとの反省の弁は誰からも聞かれませんでした。</p>
<p>私は、これらのことについてオリンピックに出場し競うということ、そこにあるスポーツの意義を考えると、この結果、この戦術について疑問を感じています。</p>
<p>日本チームがなぜこのような戦術をとったのか、それはこれまでこの戦術で力の差をくつがえし、いい成績を納めてきたという成功体験があり、それが今回も実現できると思ったことにあると思われます。それにこの戦術は非常にリスクが高いものですが、あえてそれに挑んだ、それだけでなく前回よりもさらに高いリスクを選んだということがあります。この選択は失敗する可能性が極めて高いのですが、その最悪の事態について失敗はしないだろうという根拠なき楽観主義に陥っていたのではないかと思われます。これがこの戦術の立案とその実行ということになりますが、結果は奇策、大博打を打ったものの失敗に終わったというものです。</p>
<p>リレーですから、バトンを渡す技術を磨き、それを競うのも、もちろん大切なことですが、度を超すと問題だと思います。純粋であるべきスポーツの世界で結果のみにこだわり、奇策、大博打を打つことはどうかということです。</p>
<p>勝利至上主義、メダル至上主義に走るあまり、スポーツ、アスリートの真の喜びや美しさとは相容れないものに向かってしまうのではないかという問題でもあります。今ではこんなことを言う人は少ないですが、近代オリンピックの父と言われるクーベルタン男爵が行った「オリンピックは勝つことではなく参加することに意義がある」ということに明らかに反します。決勝で走ることができなかった第３走者の桐生選手、第４走者の小池祐貴選手はさぞかし無念だったことでしょう。</p>
<p>このようにみてくると、４年に１度、世界中のアスリートが集い、これまで磨いてきたもの、鍛えてきたものを競うはずのオリンピックは勝利至上主義、メダル至上主義にゆがめられているとしか言いようがありません。</p>
<p>オリンピックそのものが、本来の目的を失い、商業主義、国威発揚に走り、本来あるべきスポーツの素晴らしさ、スポーツはアスリートの人間形成に寄与するもの、スポーツはアスリートの若き日の１ページというキャリアにすぎないこと、その後にこれまでの経験を生かしたセカンドキャリアでさらに人間性を磨くということに逆行していると思います。IOCの存在意義から考えなおしてみる必要もあるでしょう。</p>
<p>それから、前記したこのレースでの日本チームの「成功体験をもう一度期待する」「最悪の事態を想定しない」「根拠なき楽観主義」「奇策による大博打」は、過去に日本がおかしてきた過ちに通じるものがあるような気がしないでもありません。それは、太平洋戦争に突入する日本軍部が犯した過ちです。戦力でアメリカ軍にはるかに及ばない日本軍が奇襲ともいうべき真珠湾攻撃を仕かけ、最悪の場合、日本人に多くの死者が出ること、国が滅びてしまうことがありうることを考えず、そのうちなんとか終戦の合意に至るだろうと根拠のない楽観主義に陥り、その結果、泥沼の太平洋戦争を４年近く行い、その間に多くの死者を出し、国民を苦しませたことと共通する面があるような気がします。４００メートルリレーの選手は、リオデジャネイロオリンピックでは４人が刀を抜くポーズを取りながら競技場に入場してきました。そして、今回のオリンピックではこの４人を「リレー侍」と言っていました。これはどうなのかということとあわせて考えてみる必要があるように思われます。</p>
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		<title>弁護士松坂徹也のコラム(46)「地に足をつける」</title>
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		<pubDate>Thu, 02 Sep 2021 01:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[matsuzaka-lawyer]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[今、我々人類につきつけられている課題は、気候変動をどうするか、人間とウイルスとの関係をどう考えるかです。とても重い課題です。これらの問題は、小手先の対応で解決できるようなものではなく、どちらも地球環境意識のもと、これまで [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>今、我々人類につきつけられている課題は、気候変動をどうするか、人間とウイルスとの関係をどう考えるかです。とても重い課題です。これらの問題は、小手先の対応で解決できるようなものではなく、どちらも地球環境意識のもと、これまでの人類の来し方を振り返りながら、そして行く末を考えながら解決していかなければならないということだと思います。なぜならこの２つには共通している地球規模の課題があるからです。</p>
<p>世の中の多くの人の問題意識に、コロナにどう打ち勝つかとか、そのための武器がワクチンであり、それさえ打てばいいとか、気候変動（危機）問題については脱炭素とか、その割合目標をどうたてるか、ＳＤＧｓにどう取り組むかとかいうものがあります。果たしてこのような考え方による対応でいいのでしょうか。この問題には、地球環境の収容力は有限であることを意識したうえで地球規模で考え、対応しなくてはなりません。要するに、地にしっかり足をつけて考えなければならないということです。今回はこのような観点からの問題提起です。</p>
<p>この地に足をつけるということには、まさに大地、地球環境をじっくりとみつめながら日々を生きていくということ、そして深く考えることなく世の中の流れに安易に乗っていくということをあらためなくてはならないことにあります。</p>
<p>地球では人間による、人間だけの利益のための開発が世界中のいたるところで行われ、これによって自然が破壊されています。これが気候変動の要因になっていますが、この自然破壊はそれだけではなくこれまで人間と無縁であったウイルスと人間との関係に大きな変化をもたらしています。人間とウイルスとの適正な距離がおかしくなってきたのです。今回の新型コロナウイルス感染もそこにあると言われています。気候変動によりシベリア凍土の氷がとけていますが、そのうちこれまでその中にあって眠っていたウイルスが活動をはじめ、人間に近づいてくるのではという危惧もあります。</p>
<p>地球上ではウイルスは人類より先住ですから人間の行動が静かに眠っていたウイルスを起こすことになる事態にもなるのでしょう。</p>
<p>このように考えると、気候変動問題と新型ウイルス問題は密接に結びついているということになり、この２つの問題に対する対策はつなげて考えなくてはなりません。そのようにすることが地に足のついた考えということになるのではないでしょうか。</p>
<p>そのような観点に立ってみますと、ワクチンを武器にしてウイルスに打ち勝つという考え方は本質が見れていないと言わざるを得ません。これまでの科学的知見の蓄積と今後のさらなる研究によってある程度の成果は期待できるのでしょうが、人間は地球最強のウイルスを克服することはできないでしょう。ワクチン等の武器を使ってこれに勝つ、これを打ちのめすなどということはありえないことです。高度な科学的知見をもつ人間は万能であるという傲慢な考え方をすて、もっと謙虚になって地球のあらゆる生物、自然に対し畏敬の念を持つことだと思います。</p>
<p>SDGｓ（持続可能な開発目標）のなかには、自然環境、気候を守ろうというものがあります。これはこれで意味のある行動なのですが、それにあたっては上記のような考え方を基本に据えておく必要があります。そうしないと地に足がついた活動にはなりませんから。</p>
<p>例えばペットボトルやレジ袋の問題、それが存在し続けることを前提に単に量を減らそうとする取り組みは地に足がついているとは言えません。問題の本質はそれらが多量に消費される世の中でいいのかということです。</p>
<p>『人新世の資本論』の著者、斎藤幸平氏（経済思想家で大阪市立大学大学院准教授）は同著書のなかで「使用価値」と「価値」を区別し、「使用価値」が生活に必要なものの価値、「価値」は商品価値すなわち商品として売り出すことによって儲けが出る価値と定義しています。水を例にしますと、水は人間にとって最も使用価値は高いが、日本では水はどこにもありますから、お金を払って買うというものではありません。ですから、水は本来商品としての価値はありません。水は「使用価値」はあっても「価値」はないというものです。ところが、最近は「価値」があるものとして考えられています。ペットボトルに入れられて、そして多くの市民がそれがおいしい、体にいいと思ってお金を出して買う。このペットボトルに入っている水を自由にたくさん買うためにはお金がいる、お金をたくさん稼ぐため長時間労働をする、そしてこの長時間労働によってＣＯ₂の排出量が増え、地球環境の悪化、気候変動をまねく。このように物事を考えますと、人間はこれからどう生きるべきかがみえてきます。水の「価値」化をテーマにした映画があります。ロマン・ポランスキー監督、ジャック・ニコルソン、フェイ・ダナウェイ主演のアメリカ映画「チャイナタウン」という１９７４年に制作された映画です。時代設定は１９３０年代ですが、ロサンゼルスの水不足が深刻化した時代の水の利権に絡むドラマです。この映画は、水を利権の対象とした醜い争いを描いた映画です。多くの映画賞をとった作品ですからご覧になった方も多いと思いますが、何でも利権、ビジネスの対象とする人間の愚かさが描かれています。あらためてこの映画をみることによって、生活に大切なものはお金ではない、お金は人間を狂わせることがあるということを感じさせられました。故中村哲さんが主宰されていた「ペシャワール会」はアフガニスタンに用水路を建設して水を提供し、同国人に多くの幸福が生まれましたが、そこにはビジネス的なものは何も入っていません、このことは全く逆の発想です。</p>
<p>ＳＤＧｓの取り組みは素晴らしいですが、物事の本質をとらえた活動にならなければならないと思います。</p>
<p>ウイルスに話を戻しますと、限りなき成長を求め続けると、次々と新種のウイルスが人類の前に現れますし、地球環境の破壊、気候変動、気候危機は増して続くでしょう。このような観点に立って物事を考える必要があると思います。この視点こそ「地（球）に足をつける」ということではないでしょうか。</p>
<p>コロナ感染が爆発的となった状況のなか、オリンピックを開催したことは「地に足がついていない」象徴のようなものと言えるでしょう。又、ワクチン接種はそのウイルスへ向けたその場だけの対応にすぎませんから、ワクチンですべて解決と考えていたのでは次から次に出てくる新たなウイルスの発生に対して後手後手にまわるだけです。コロナに打ち勝つとか、ワクチンがコロナと戦う武器になるなどと言っていたのでは本質的な解決には至りません。この問題については、今しっかりとした考え方を確立して取り組まないと人類の将来は真っ暗だと思います。地に足をつけた生活をすることこそ、コロナ終息への道、気候正義への道になると思います。復興五輪とは名ばかりの東京オリンピック開催へ向けた再開発、東京の街づくりも地に足がついているとは思えません。東京と復興の対象であるはずの東北との格差を広げるばかりで、東北から人や物を集奪する都市づくりと言えるでしょう。これまでの東京と東北との関係は、東北が東京を支えてきた、東北の犠牲のもとに東京の発展があったというものでした。このことは、福島原発によって電力の供給を受けるのは東北の人達ではなく、東京にいる人達や企業であることからもわかります。今回のオリンピックも同じことです。「風とともに去りぬ」という古いアメリカ映画があります。１９３６年制作の大作で、ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラとクラーク・ゲーブル演じるレット・バトラーがあまりにも有名ですが、私が観た映画でのオハラ家の会話、その中で召使いが話す言葉の日本語字幕は東北弁となっていました。このことに違和感を憶えたことを記憶しています。</p>
<p>コロナ禍を機に東京重視から地方回帰へ向かう槌音が聞こえてくることを願うばかりです。それが実現できれば、変わることなく昔のまま残っている東京の良さも再発見できるでしょう。東京には江戸時代の各藩の緑豊かな江戸屋敷があって大きく変わることなく今でも残っていますし、下町にも江戸時代の風情を残したところがあります。</p>
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		<title>弁護士松坂徹也のコラム(45)「『なでしこジャパン』と『サムライジャパン』」</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2021 00:32:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[matsuzaka-lawyer]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[「なでしこジャパン」と「サムライジャパン」 &#160; 「なでしこジャパン」はサッカー女子日本代表の名称として使われていますが、この名称の由来は何でしょうか。 ずっと前から考えていたのですが、そのヒントはサッカー男子日 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>「なでしこジャパン」と「サムライジャパン」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「なでしこジャパン」はサッカー女子日本代表の名称として使われていますが、この名称の由来は何でしょうか。</p>
<p>ずっと前から考えていたのですが、そのヒントはサッカー男子日本代表の名称「サムライジャパン」にあるように思われます。</p>
<p>「侍」は江戸時代以前からの武士を表すものですが、その武士とは、大名、幕府、それに万世一系天皇家を守る軍人で、いつも武器としての刀を身につけていました。もっとも、世の中が安定した江戸時代中期以降の武士は、学問や真理、文化等を学ぶ知的階層でもあったようです。</p>
<p>この「サムライジャパン」の名称は、いつも刀を身につけ、相手を力でなぎ倒す強い武将を意識したものと思われます。野球の日本代表も「サムライジャパン」と言われることがありますが、その趣旨は同じで、バットを「サムライジャパン」に例えたのでしょう。リオデジャネイロオリンピックの陸上男子４００メートルリレーの日本選手４人は全員刀を抜く仕草をしながらトラックに現れました。これも「侍」を意識したのでしょう。</p>
<p>しかし、「侍」が所持している刀は武器であり、暴力装置です。そして、スポーツは平和を愛するもので、暴力とは正反対のものです。スポーツの祭典であるオリンピックの舞台上で、暴力装置まがいのものを振りかざすポーズはスポーツの冒涜だと思います。この点について、メディアは日本人に美徳を示すものとして賞賛こそすれ批判はしませんでした。これはどうかと思います。</p>
<p>「なでしこジャパン」に話を戻します。</p>
<p>「なでしこ」の由来は「大和撫子」にあると思います。「大和撫子」とは、態度や表情が穏やかで男性を立てる女性を指すもので、日本人女性の美称と言われています。</p>
<p>武家である侍の妻として、決して表に出ることなく、夫の後ろに控え、影で夫を支えるものというものでしょう。江戸時代の武家の妻はいつも家の中に留まり、外に出ることは極めて稀でした。妻のことを「家内」というのは、このことに由来しています。夫を示す「家内」の逆の用語は「主人」でしょう。</p>
<p>「大和撫子」とは、このような女性を指すものであったのです。「サムライジャパン」「なでしこジャパン」の名称の由来をこのように考えてみますと、元東京オリンピック組織委員会の森喜朗氏のジェンダー差別発言が思いうかびます。男性と対等を目指す女性のことをよく思わない森氏の意識からすると「なでしこジャパン」はお気に入りの名称ということになるのでしょうね。</p>
<p>私としては、ジェンダーギャップ解消の観点からこのサッカー日本代表の名称はあらためられるべきと思います。</p>
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		<title>弁護士松坂徹也のコラム(44)「豪雨と洪水と日本」</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2021 00:31:00 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[豪雨と洪水と日本 &#160; 気候変動による多種、多様な被害が世界中に蔓延しています。大雨による洪水、大雪、山火事、大地の砂漠化などです。バッタの異常発生、海水温の上昇、これによる不漁なども気候変動によるものでしょう。 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>豪雨と洪水と日本</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>気候変動による多種、多様な被害が世界中に蔓延しています。大雨による洪水、大雪、山火事、大地の砂漠化などです。バッタの異常発生、海水温の上昇、これによる不漁なども気候変動によるものでしょう。</p>
<p>気候変動は、温室効果ガスによる地球温暖化が原因ですから、なんとしてでもこれを止めなければなりません。脱炭素もその１つですし、二酸化炭素を吸収する森林復活もその一助となるでしょう。</p>
<p>今回はわが国が毎年直面している気候変動による豪雨、洪水を考えてみたいと思います。</p>
<p>「治山・治水」これは、日本にとって古くからのテーマでした。日本の国土の特徴は、山が高くて険しい、いわゆる急峻状態にあること、一方で国土が狭く海に囲まれているため、川の長さは短く、すぐに海に達してしまうこと、しかもその川は急峻なところを流れていくため速度が速いこと、川幅が狭いこと、気候は温帯であるものの雨が多く、急に川の水量が多くなることにあります。</p>
<p>これは何を意味するかというと、ひとたび激しい雨が降ったり、長雨が続いたりすると、いたるところで洪水になってしまうということです。川幅が広く、川の長さが長いところでは、川の水はたゆたゆと流れているため、多少の雨が降っても問題にはなりません。ヨーロッパに流れているドナウ川、ライン川などの悠々とした川の流れをみればその違いはわかります。</p>
<p>日本の場合、激しい雨が降るとその雨は高い山から一気に早いスピードで下流に流れ落ち、そのまま海に達してしまいます。そして、その間に周辺の土地や山を荒らしてしまいます。そのような川は、その激しさを表すため言葉として暴れ川と言われ、利根川を坂東太郎、筑後川を筑紫次郎、吉野川を四国三郎と言ったりしていました。</p>
<p>そこで、日本ではこれまでこの暴れ川をコントロールし、山や水を守るための数々の施策が行われてきました。これを「治山・治水」といいますが、歴史を遡ると戦国時代から、例えば武田信玄や加藤清正は堤を作って水のエネルギーを弱めてきましたし、江戸時代にも多く為政者がこれに取り組んできました。</p>
<p>水路が整備された江戸時代の日本は、百姓がつくる米が国の経済的基盤でしたから、水飢饉とともに洪水による災害は何としても防がなくてはならなかったのでしょう。この「治山・治水」は明治以降も続けられなんとかコントロールしながら今日に至っているもので、日本のこれまでの労苦は世界に例をみないものでした。</p>
<p>しかし、最近の豪雨の凄まじさはこれまでとは違った様相を呈します。毎年の梅雨時期の豪雨、洪水はこれまでに経験したことがないような凄さで各地に多くの被害をもたらしています。一昔前の被害とはケタが違くように思われます。これまでの長年にわたる治山、治水策で築きあげてきたものがもはや通用しなくなっているということを思わせる事態です。その原因が、気候変動にあることは明らかです。</p>
<p>そして、地球温暖化こそなんとかしなければなりません。これは世界中に投げかけられたテーマですが、とりわけ日本にとっては重大な問題です。そのための一つの方策が脱炭素ということになるのでしょう。この脱炭素への取り組みは世界中で行われており、日本もこれに同調していますが、その取組み方は及び腰で強い意思が感じられません。ＣＯＰ（国連気候変動枠組条約締約国会議）では、この日本の態度に事の重大さ、問題の本質がわかっていないと皮肉交じりの批判が示されています。</p>
<p>冒頭にも述べましたが、日本の国土の特徴や気候、風土からすると地球温暖化による気候変動の影響、被害は先進国のなかでは日本が一番深刻です。このままでは、豪雨や洪水はますますひどくなり、川の氾濫による農作物への被害、周辺住民の生命、住宅（この住宅にはマンションも含まれます）の被害は増すばかりです。</p>
<p>山を切り開いて開発した住宅への地すべり、被害も多くなるでしょう。これらのことに問題意識をもって早く取り組まないと大変なことになると思います。日本は先進国のなかでは、一番危険な国土、気候のなかにあります。ですから、日本こそ地球温暖化、気候変動問題への対応の先駆的な役割を果たさなければなりません。しかし、現実はこの対応が最も遅れていると言わざるを得ません。</p>
<p>佐伯一麦という作家が書いた小説に「山海記」というのがあります。この作品は２０２０年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞していますが、日本各地で起こった大規模な豪雨、洪水の様相を描いた作品です。作者は、このままでは日本の国土と国民の生活がダメになるとの警鐘をならしています。因みにこの作家は仙台出身で、東台日本大震災で深刻な被害を受けています。</p>
<p>「マークスの山」で直木賞を受賞し、「レディジョーカー」「冷血」「照柿」「太陽を曳く馬」などの作品がある高村薫が２０１６年に描き、毎日芸術賞を受賞した「土の記」という小説でも豪雨による山の被害をテーマとして扱っています。この作品は自然の美しさ、自然の恵み、これを享受する人間の生活をメインにしていますが、一方で自然の恐ろしさ、自然の力にはあらがえない人間の無力さをも描いています。</p>
<p>私達は、自然というものをもう一度原点に立ち返って考えなくてはならないと思います。要は、このままだと将来どうなるんだということに対する想像力の問題ですし、歴史や最近の豪雨による悲惨な状況に学ぶ必要があることを示唆しています。急峻な山や、その間を流れる川、渓谷の美しさは格別です。これを守り、一方でこれによる被害を減らす努力が必要だということでしょう。</p>
<p>脱炭素を考えるにあたって大切なことは、森林復活があります。森林は、二酸化炭素を吸収しますから、これによって温室効果ガスの発生を抑えることができます。それと当時に、山に根をはることになりますから、山の保水力を高め、山を流れ下る雨水の流れを抑制することができます。森林の復活、維持は長期的な計画性をもって行わなければなりません。森林を伐採した後、そこに計画的に苗を植え、それが成長するように管理していかなければならないということです。これを森林循環といいますが、日本ではずっと前から海外の安値木材との価格競争、伐採労賃の高額化等の事情から、伐採がなされないままの状態あるいは苗木が植えられていない状態が続き、好循環ができていません。</p>
<p>それではどうすればいいかというと、新たな木材の需要を喚起する必要があるということです。</p>
<p>その１つとして、有力なのが木材をチップにして燃やして発電をする木質バイオマス発電です。木質バイオマス発電はオーストラリアで進んでいて、発電源の半分以上を占めています。</p>
<p>山林が多い日本では、これから木質バイオマス発電に力を入れるべきです。この発電で木を燃やすときに二酸化炭素が発生しますが、それは成長した樹木が吸収してくれますから、大気中の二酸化炭素の量は変化しません。カーボンニュートラルの目的も達成することができます。そうすることで、杉、檜の伐採も進み花粉症もなくなるでしょう。</p>
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