今回のラグビーワールドカップ、日本選手の活躍は素晴らしかったですね。
ラグビーというスポーツは肉体と肉体が直接ぶつかりあって球を奪い合う競技ですから、実力差がはっきり試合にあらわれて、番狂わせは極めて少ないですから、今回の活躍は本物です。
日本は体力的なハンディをスピード、組織力、低いタックル、それにけた違いの練習量で補いました。2019年に日本で開催される次回のワールドカップが楽しみです。今回の試合内容について欲を言えば、もう少しトライが欲しかった(これはFB五郎丸選手のPGがすごかったことを意味しますが。)ような気がします。やはり、最前線のフォワードをもっと強化する必要があるのでしょうね。
さて、本題に入ります。ラグビーの場合、監督ないしヘッドコーチはピッチの横ではなく、スタンドの上の方で試合を見ます。これはサッカーと大きく違うところです。
私はあるとき、その理由を知り合いの九州電力(チーム名を九電ヴォルテクス)の元監督に尋ねました。
理由は2つありました。
その1つは、試合までは監督やコーチが指導し、戦術などを授けるが、本番ではすべて選手に任せる。その場、その場での戦術の決定も選手にさせるというものでした。ラガーマンのことを、若くして大人の自覚を持つようになり、大人になっても少年の心は変わらないと言われているゆえんですね。
もう1つの理由、これがとても大事なことですが、試合全体、具体的にはゲームの流れや各選手の動き、相手チームの作戦やそれへ向けた選手の動きを高い位置から俯瞰するためです。
ゲームを把握するためには、目の前だけを見てはだめで、全体を見ないといけない、そうしないと木を見て森を見ないということになってしまうということでしょうか。監督やヘッドコーチはこのようにして試合全体を把握し、ハーフタイムに指示を与えたり、体の動きが鈍くなった選手を交代させたりしているのでしょう。又、次の試合への教訓も得ているのでしょう。
この全体を俯瞰するという処し方は、ラグビーだけでなく、社会の指導者にも求められると思いますし、人間一人一人の物の見方や考え方、生き方の決定にも重要だと思います。
次に、別の角度から物事の見方を考えてみましょう。
ナンシー関という人を御存知でしょうか。2002年に亡くなった方ですが、消しゴム版画家で、コラムニストです。
版画の作品も面白いのですが、シニカルなテレビ批評がすごい。語り口は軽妙ですが、突っ込みが深く、実に辛辣。このすごさはどこから来ているかというと、独特な観察眼によるものです。この観察眼について、どなたか忘れましたがある人は、焦点深度が極めて深いと言っていました。
焦点深度の深さとは良い表現ですね。表面だけをさらっと見るのではなく、奥の奥まで掘り下げて見る、写真撮影に例えると、被写体にフォーカスをあて、奥まで見極めて、そこでシャッターを押すということでしょう。簡単にシャッターを押したのでは写らないものが写ってくるのですね。このような態度をもつことは、今の軽薄な世の中、とても大切なことだと思います。
井上ひさし氏作の演劇に、政治学者吉野作造氏の評伝劇「兄おとうと」というのがあります。因みに、弟は吉野作造氏とは真逆の人生を生きた商工官僚で戦前は商工大臣、戦後は運輸大臣を努めた吉野信次氏。
私はこの劇を観ましたが、その中で吉野作造氏が中国から来た教え子に語ったセリフに「国はおにぎりに似ている。何を芯にして1つになるのかが大切。その芯とは、民族でも言葉でも宗教でもお米の文化でも歴史でもなく、ともにより良い生活を目指そうという願いである。そして、人々のそのような意思と願いを文章にしたのが憲法だ。」というのがあります。洞察がすごいですね。
それにしても、「女性が輝く社会」とか「1億総活躍社会」という言葉は、軽く、踊っていますね。輝かなくてもいい、ちゃんと社会で仕事ができて、家族を大切に守れればそれでいいのです。活躍しなくたって、生きる喜びを感じて幸福に暮らせばいいのです。
これらの言葉は、いかにも表面的で深みがない。ナンシー関さんが生きておられたら、何とコメントするでしょうか。
俯瞰と焦点深度とは全く逆の発想ですが、この2つは両立するわけで、両方の物の見方を常に意識しておくことが望ましいでしょう。
広い視野を持って物事を見、特に大事なところは深く掘り下げるという姿勢が大切だということになりますが、これを身につけるのはなかなか難しいことです。
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