今年は高倉健が亡くなって満1年、9月には原節子が亡くなりました。渥美清が亡くなって来年で満20年の年でもあります。
そこで、日本映画の中心的な俳優のことを考えてみたいと思います。
まず高倉健について。
高倉健の映画については、3つの時代に分けられます。第1期が1960年頃までの青春時代、第2期がその後1970年頃までの任侠映画時代、そして第3期が東映を離れた後のフリーの時代です。
第1期はこれといった特色がなく、せいぜい美空ひばりの相手役をやることがあったなあという程度で、あまりパッとしません。
第2期は、東映が時代劇中心からやくざ映画に路線を変更し、大当たりした時代で、高倉健の人気はこのとき確固たるものになりました。
この時代は、いわゆる全共闘時代ですから、任侠映画は体制や権力に反抗する若者に受けたのでしょう。当時の女子学生は、ことあるごとに「健さん!」と言っていたように思います。又、当時は日本の経済が高度成長に差しかかった時代で、格差社会の始まりであったころですから、経済的に恵まれない人達の不満のはけ口にもなっていたようです。
東映を離れることについて、高倉健の将来に疑問を投げかける人もいましたが、フリーになった後の高倉健は素晴らしい。
この後の出演作品は概ね2つの傾向に分けられます。
1つは山田洋二監督の、北海道を舞台にした、素晴らしい風景の中での人間関係や心の有り様を描いた作品、もう1つは降旗康雄監督による過酷な状況下での頑なで無骨な男を描いた作品です。これも北海道を舞台にしたものが多いですね。
前者の代表的な作品は「幸福の黄色いハンカチ」と「遥かなる山の呼び声」で、後者の代表的なものは「駅 STATION」、「鉄道員(ぽっぽや)」、「ホタル」でしょう。
いずれの作品も大自然の美しさを映像として捉え、そのなかに高倉健を置き、自然と人間というのもテーマの1つとしているように感じます。
ですから、撮影監督の力量が問われるわけで、前者では高羽哲夫氏、後者では木村大作氏が撮影をしています。
高羽哲夫氏は、「男はつらいよ」シリーズ全作を撮っています。(渥美清主演の「男はつらいよ」に必ず出てくる渡世人、車寅次郎が旅する全国各地の自然や祭りの映像が素晴らしいですね。)
木村大作氏は、「八甲田山死の彷徨」という作品(監督は降旗康雄氏ではなく、森谷司郎氏ですが、これも高倉健の有名な主演作。)も撮っていますが最近では自ら監督もしています。有名なのは、3、4年前の「劔岳 点の記」という映画です。
木村大作氏の作品に共通して言えることは、雪の神秘や美しさ、自然の脅威を扱った映像ということでしょうか。
今年は出身地の北九州市で高倉健の映画が上映されたり、偲ぶ会が開催されていますし(高倉健は中間出身で東筑高校卒)、福岡市の総合図書館でも何本か上映されました。このような存在感のある大物俳優はなかなか出てこないでしょう。
次に原節子について。
原節子は95歳で亡くなりました。 最後の作品は1963年で、その当時の私は高校生になったばかりですから、映画館で見ることはありませんでしたが、最近小津安二郎監督の映画がデジタルリマスター化されたのを機に、DVDを借りて自宅で多くの出演作を見ることになりました。
原節子は、勿論ほかの監督の作品にも出ていますが、小津安二郎監督のいわゆる「小津調」といわれる作品にこそ、その良さ、例えば当時の日本女性の清らかさ、そして芯の強さが出ていると感じました。
顔立ちは、パーツが大きく、強い意思のようなものを表すことができますが、控え目で奥ゆかしさを持つ淑女の役を演じることが多く、演技の中に気品が漂っていました。
原節子の小津安二郎監督による最後の作品は1962年の「小早川家の秋」でした。
小津安二郎監督は生涯独身でしたが、1963年にこの世を去り、原節子は以降、銀幕に姿を現すことはなくなりました。最後の作品は42歳の時ですから、以降53年間ひっそりと過ごしたことになります。
何を想いながら1人で暮らしていたのでしょうか。
「小早川家の秋」では司葉子が原節子の義理の妹の役、その前の作品である「秋日和」では、娘役でした。そして、原節子は出演していませんが、小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」は岩下志麻のはじめての主演作でした。
原節子は、このころ世代交代のようなものも感じたのかもしれませんね。
小津安二郎監督の作品の撮影は、戦後は殆ど厚田雄春氏です。ローポジションからの撮影が特徴ですが、畳に座って生活する日本人の生活感を出そうとしたそうです。
独特な撮影技法としては、黒澤明監督が有名ですが、このことについては次の機会に論じたいと思います。
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