今回は日本と韓国との関係のおはなし。
日本と韓国との現在の関係は、残念ながら決して良好とはいえません。
1910年の日本の韓国併合とその後の世界大戦、その渦中での出来事に由来しているわけですから、簡単には関係改善とはならないでしょうが、隣同士の国ですから、仲良くなりたいものです。
そこで、日本と韓国との交流の歴史について考えてみます。
まず話を中国の唐の時代に戻しましょう。唐の時代の前半は唐・新羅と日本・百済による白村江の戦いなどがありましたが、後に唐の力が絶大となり、唐を中心に、朝鮮半島を半ば統一した新羅、日本との三国の関係が出来上がりました。
文化面も含めて、唐の力があまりにも強力であったため、新羅、日本はそれを学び習うため交流を求めました。日本にとって遣唐使がその代表的なものですね。
日本と新羅との間での直接の交流もあったでしょうが、唐との各交流のなかでの両国の交渉というのも当時の外交では重要だったのではないでしょうか。
このころから日本と韓国はすでにライバル関係にあったと思われます。
このような関係性のなかで豊臣秀吉による朝鮮半島進出がありました。豊臣秀吉は相当に残虐な振る舞いをしたようで、以来相当の期間、朝鮮半島の人達は秀吉をその象徴として日本人を恨んでいたようです。
そのうち江戸時代となりますが、両国は日本が鎖国していたにも関わらず、友好関係を築くような努力をします。
それを熱心に進めた人が雨森芳洲です。
この方は新井白石と一緒に学んだ儒学者で、対馬藩に召しかかえられますが、対馬と朝鮮半島の距離が近いことから、両国の交流に力を入れます。
その交流の1つが「朝鮮通信使」です。
雨森芳洲は、外交官のような仕事をしたわけで、「互いに欺かず争わず、真実をもって交わる」という「誠信」の交わりを説いて通信使の継続に貢献しました。
芳洲は、対馬で通信使を迎え、壱岐、福岡を経由して江戸までの長い旅を通信使とともにしたわけです。
そして、江戸に至るまでの道中、各藩は船を出したり、人を出したり食事を提供したりして全面的に協力しています。
この朝鮮通信使の来日は、芳洲死亡後も続けられ、1607年から1811年の間に12回の来日がありました。
その様子は辻原登氏の小説「韃靼の馬」に詳しく書かれています。なお、同氏は直木賞を受賞した「翔べ麒麟」で唐を中心とする日本と韓国の三国の関係を阿倍仲麻呂を主人公にして描いています。
この度、この外交使節ともいうべき「朝鮮通信使」の関係資料が対馬のNPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会」と、韓国の「釜山文化財団」によってユネスコの世界記憶遺産に共同で登録申請されました。
平和を希求した外交活動が世界記憶遺産として登録申請されたこと、しかもその申請をしたのは最近関係がギクシャクしている日本と韓国の団体による共同の申請であったことに意義を感じます。これを機に、雨森芳洲の精神を現代に生かし、両国の関係がさらに改善されることを願ってやみません。
因みに、対馬では夏祭りで「通信使行列」が再現されているそうです。
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