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2017/05/24 | 弁護士松坂徹也のコラム⑳「被災者と被害者」 |
被災者と被害者
久し振りのコラム執筆です。ここ半年ほど、色々と煩わしいことがあってコラム執筆に手がまわりませんでしたが、落ち着きましたのであらためて執筆に取り組みます。 日本は本当に自然災害の多い国ですね。 「阪神淡路大震災」、「東日本大震災」が最近の自然災害としては最も大きなもので、福岡でも「西方沖地震」がありましたし、昨年は熊本、大分でも震災がありました。また、台風や水害による被災は毎年のように発生していますし、その被害は年々大きくなっています。地球温暖化の影響も大きいのでしょう。 それにしても自然災害の力は圧倒的ですね。人間は、科学等の力を結集して立ち向かっていますが、自然の猛威の前にはひとたまりもありません。何と無力なことか、被災された方には酷かもしれませんが、自然の恐るべき脅威は認めざるを得ないところで、いざというとき、いかにそこから逃れるかを常日頃から考えておかなくてはならないのでしょう。 一方で、自然は大きな恵みや贈り物を与えてくれます。土や雨や太陽、それに海からの多くの恵み、具体的なものとして農作物や海産物、そして人間には欠かせない飲み水、それらはすべて自然からの贈り物です。 私達は、それに対する感謝の気持ちを常に持っておかなくてはなりません。私達の祖先は、これまで色々な形でこの感謝の気持ちを示しています。村祭りや神楽舞などは五穀豊穣への感謝を示すものです。相撲には、スポーツであると同時に五穀豊穣を生み出してくれる土への感謝の気持ちを表す神事でもあります。横綱土俵入りの際の、土を強く踏みしめたせり上がりは、土への感謝を示していると言われています。私達は、この自然の恵みを大切にしなければならないと思います。 最近、高村薫の「土の記」という小説を読みました。 人間と自然との関わり、自然からの贈り物を書いていますが、物語の最後は自然の恐るべき脅威です。身につまされるものがありました。 災厄には、自然災害とは言えないものも沢山あります。いわゆる人災ですね。この場合、その犠牲になった人は被災者ではなく被害者ということになります。 戦争の犠牲者はその代表的なもので、日本に関係したものでその最たるものといえば、原爆の被爆者、沖縄戦で犠牲となった住民、昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなった約10万人の人達(なお、焼け出された人は何と100万人とのことです。)、言うまでもなく招集令状1枚で戦場に駆り出され銃弾に倒れた人、病死した人、餓死した人、それらの数は、おびただしいものがあります。これらの人々も皆、被害者です。(加害者は戦争を遂行した人達といえるでしょう。)靖国神社を参拝する閣僚は、そこに祀られている戦死者に触れて、「英霊に対し、尊崇の念を示した」という趣旨のことと言いますが、大切なことが欠けていないでしょうか。「国の誤った選択によって、尊い命を奪ったことに、国の機関の一員として謝罪の気持ちを示した」というべきではないでしょうか。 さて、東日本大震災で被害を受けた福島の人達のことを考えてみます。この人達は、宮城県、岩手県の人達と一緒に被災者と言われますが、よく分析してみる必要があります。 津波や地震で被害を受けた人と、東京電力福島原子力発電所の事故による放射能汚染によって帰宅できない人を同じ地震、津波の被災者とするのは少し違うのではないかと思います。放射能汚染による帰宅困難は、引き金が津波であったとしても、原因は放射能汚染にあるわけであり、それを生み出したのは原子力発電をエネルギー政策の基本とする国、それに依存し、十分な安全対策を取らなかった電力会社の責任にあるわけですから、完全に人災です。ですから、これらの人々は被災者ではなく被害者です。そして、その加害者は国と電力会社ということになります。この違いは、はっきりと認識しておくべきだと思います。このように考えると、私達に突き付けられた原子力発電の問題点(私を含め多くの人間は、迂闊にもこれまでこの問題点を、何も考えることなく利益のみを享受していたわけですが)について何も答えも出さず、何事もなかったかのように簡単に運転を再開した電力会社、それをさせた国のあり方には大いに疑問を感じます。 |