前回述べました政治を中心とする日本の反知性的な危うさの原因を考えてみたいと思います。
原因は沢山ありますが、その1つに国民の議員選択があると思います。
昨年の総選挙で多くの国民が自民党の候補者に票を入れたことです。安倍政権は、7月に憲法9条の解釈変更を閣議決定してしまいましたし、将来の憲法改正を目論んでいましたから、このような事態になることは十分予測できたはずです。
なのに、自民党を大きく勝たせてしまいました。この責任は酷な言い方かもしれませんが、国民にもあると言えるでしょう。又、先の戦争にしてもその遂行に協力したマスメディアの責任は極めて大きいと思いますが、これももっと酷な言い方ですが、無批判にこれを受け入れ、異を唱えなかった国民にもその責任はあると言えるでしょう。そして、私も含め当時の戦争のときには生を受けていなかった人間も、又、これから生まれてくる人間も、当時の日本の国の構成員を先人に持つ同じ日本人としてこのことに責任がないと考えるのではなく、先人が行った行為を肝に銘じておく必要があるように思います。
抑止力という言葉がよく使われていますが、我々日本人がこのように考えておくこと、過去の過ちに反省してできた平和憲法を守るという強い意識を持つことが真の戦争抑止力となるのではないでしょうか。
この点について、私が敬愛する劇作家の井上ひさし氏は、広島、長崎での被爆、そして大量の犠牲者のことを忘れないことが戦争の抑止力になると述べています。同氏の作品に、広島の原爆で死んだ父と、生き残った娘の夢の中での対話を描いた「父と暮らせば」という演劇がありますが、同氏はそんな思いを込めてこの戯曲を書いたのでしょう。この作品は、黒木和雄氏が戦争レクイエム4部作の1つとして監督し、宮沢りえ、原田芳雄主演で映画化されていますので、DVDで御覧になることができます。
一般によく言われる抑止力は、危ういものです。なぜなら、この抑止力は戦力の均衡のうえに成り立っているものですから、一方が戦力を強化すれば、他方も負けじと強化するというふうにエスカレートするばかりですし、ひとたび均衡が壊れてしまうと武力行使の事態に陥るという危険性をはらんでいます。
抑止力について、前者は性善説的抑止力、後者は性悪説的抑止力ということになるのでしょうが、性悪説に立つのは悲しいことです。
このように考えますと、安倍総理が戦後70年談話として述べた「あの戦争には何の関わり合いの無い私たちの子や孫、そしてその先の世代の子ども達に謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」との表現は性善説的抑止力を否定するものであり、適切な発言とはいえないと思います。
前に述べました、国民が国を危うくしないための責任を十分に果たしてこなかったことについて、少し考えてみたいと思います。
その根本にある問題は、国民一人一人が共同体の中の一個人として、又、「公」に対する「私」として、確立された「個」に基づいた思想を持ち、行動するという意識、常に当事者意識を持つという考えが形成されていなかったというところにあるのではないでしょうか。平たく言うと、日本の多くの国民は自己を主張をすることなく長いものに巻かれることが穏当な物事への処し方で、周りの空気を読まずに自分の意見を述べることは異端であると考える風潮があったということだと思います。現に今でもこの傾向はありますよね。
そこで次に、そうなった原因を探ってみたいと思います。これはなかなか難しい問題で明治の時代に、いやもっと古く、太古の時代に遡らなければなりません。
この続きは次回にしたいと思います。
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