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2017/07/05 | 弁護士松坂徹也のコラム(23)「国を愛するこということ」 |
国を愛するということ 国民と国との関係をあらためて考えてみたいと思います。国民があって国があるのか、それとも国があって国民があるのかという問題です。前者の場合、国民を幸せにするため、国民を守るため国があるということになりますし、後者の場合はまず国があって国民は国につくすということになります。 明治憲法の時代は言うまでもなく後者です。「大日本帝国は、万世一系の天皇之を統治す」や「天皇は国の元首にして統治権を総覧」という趣旨の条文の内容、そして国民を臣民と規定していることからもこのことは明らかです。 戦争という誤ちを犯したことを反省して作られた日本国憲法はこの明治憲法とは全く逆の考え方で国民主権を宣言していますから前者にあたります。民主的な国家はすべて国民主権です。 我々日本国民は自身が主権者であること、わかりやすくいいますと我々国民が主役であって、決して国が主役ではないことを強く意識しなければなりません。この意識は主権者としての当事者意識ということになると思います。 ですから私達はこの意識をもって現在の政治状況を監視しなければならないのです。 しかし、最近は政治に無関心な人、政治家が無茶苦茶なことをしてもあまり問題に思わない人が若い方を中心としてかなり多いように思われます。問題はこの無関心ということにあります。そこで政治的な「無関心」について考えてみたいと思います。 国民主権の考え方に基づいてこの無関心を評価しますと、それは主権者として当事者意識が欠如している、あるいは放棄しているということになるのでしょう。日常の生活が大変だし、日々なんとか平穏に暮らしていければ政治のことはどうでもいいということなのでしょうか。しかしそれはとても由々しき問題です。 この無関心という根が深い問題を別な角度から見てみましょう。 唐突ではありますが、「愛」との比較で考えてみたいと思います。愛の反対語は何でしょうか。「愛憎」という言葉がありますから「憎しみ」でしょうか。 しかしこの比較は情緒的な面に偏していますから、ここでの論点からすると適切ではありません。もっと社会的に見てみる必要があります。 私は無関心こそが愛の反対語ではないかと思います。無関心とはどうでもいいということですね。大切な国のあり方について主権者としての当事者意識を持たずに無関心でいてもいい、国民の幸福を実現しなければならない国の有り方についてどうでもいいということになります。我が国を少しでもいい国にしたいという思いとは対極にあるわけで、大切な自分の国を愛することに反します。 この国を大切にする、国を愛するということは国が行おうとしていることを厳しく批判するという姿勢を持つことではないでしょうか。 国の政治のあり方に対しこのような厳しい批判をすることを「反日」だとか「売国奴」だとか言う人もいるようですがとんでもないまちがいです。 日本人は元来当事者意識を持つことが苦手なようです。苦手というよりそれを身につける機会に恵まれなかったという表現が正しいのかもしれません。社会人となるまでの大半を過ごす学校では自分の意見を示すことの必要性は教わらずに、協調性ばかりが求められてきました。社会人になるとその大多数を占める会社勤めの人は会社のなかで自分の意見を出すことをあまり求められていません。むしろそんなことをすると会社から疎まれますから静かに生きようとします。その方が出世にとっても好都合です。このようにして日本人は自分の意見を主張すること、当事者意識、政治的にいえば主権者意識を持つことなくこれまで日々生活してきました。 大多数の国民がこのような状態にあることは為政者にとっては都合のいいことです。誤った政治をしても国民は何も言わないのですから。 「共謀罪」法を強行採決したり、それによって加計学園問題の追及を終わらせたり、臨時国会の召集要求を憲法53条に違反して無視したり、大臣としての資質に極めて大きな問題のある閣僚を辞めさせなかったり、都議会議員選挙の応援演説をしている総理大臣が「辞めろ」と言った人達に対し「こんな人達に負けるわけにはいかない」と言ったりしている今の政治状況はまさに批判の対象となる誤った政治状況です。(辞めろと言った人達も国民ですから総理大臣はこの人達の発言に耳を傾け大切にしなければならないことは言うまでもありません。) このような事柄に日本人1人1人が主権者意識をもって臨まないとこの国は大変なことになってしまいます。 |