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2017/11/27 | 弁護士松坂徹也のコラム(28)「弁護士の役割と責任」 |
弁護士の役割と責任 弁護士の仕事についてのコラム第2弾です。 帚木蓬生という作家を御存知ですか。福岡県小郡市出身の方です。精神科の医師(九大医学部卒)で現在中間市でクリニックを営んでいます。 この方は医師で小説家ですが彼の作品のなかで最も有名なのが「三たびの海峡」「逃亡」です。 前者は戦時中炭鉱労働者に強制徴用された朝鮮人の苦闘と戦後彼を不当に扱った日本人に対する復讐を描いた物語、後者は香港で中国人に残虐な行為を行った憲兵(もちろん意に反して上官の命令に従って行っているのですが)が日本に帰って来た後、戦犯として処罰を受けないよう逃亡し続けた物語。いずれも戦争の悲劇を扱ったもので厳しい現実をつきつけています。 比較的最近のものでは江戸時代、筑後川の水を朝倉の田に導入するため命がけで奮闘した五人の庄屋を描いた「水神」という小説があります。この水を田に引き込む技術は福岡出身の医師でペシャワール会を主宰する中村哲氏がアフガニスタンの砂漠地帯を水で潤した取組みに役立てられたことでも有名です。 この帚木蓬生の5年ほど前の作品「天に星 地に花」という小説を読みました。 物語は1700年代中期の久留米有馬藩の御原というところで多くの農民の治療に専念した医師、高松凌水が人間一人一人を大切にする生き方を描いたものです。 高松凌水は大庄屋の息子ですが幼いころ疱瘡(天然痘)を患い生死をさまよいましたが命がけで治療にあたった医師小林鎮水のおかげで一命を取りととめたことから同氏に弟子入りし医師となります。 この小林鎮水という人は大変立派な人で農民のために尽力しましたが、有馬藩の家老稲次因幡が書いた「天に星、地に花、人に慈愛」という書の意味するところを大切にし、患者一人一人に慈愛をもって接し治療を行いました。この稲次因幡は享保の飢饉の際百姓の気持ちや状況をよく理解して藩の年貢制度を改めさせ百姓の一揆を止めさせた人です。 凌水は鎮水の精神を受けつぎ修業をしますが、鎮水が凌水に教えた医の心得は、壊れた物は治らないが人間は回復力、自然治癒力をもっている。医師の仕事はそれを引き出す、あるいはそれを手助けするにすぎない。従って余計な治療をしたり、無意味な投薬をして金をかせいではいけないというもので、とても含蓄のある言葉でした。又、鎮水は診療には丁寧、反復、婆心を尽くせとも言っています。 このような考え方は我々弁護士の仕事にも通じるところがあるように思います。 我々弁護士が扱う仕事は紛争です。 その紛争について一方当事者の代理人となって相手方と対峙するのですが紛争をかかえている当事者はそれが解決するまで憂うつで、辛く、苦しい日々を送ります。 本人はなんとか早く事件を解決したいと願いますし、できれば自分の力で解決したいと思います。しかし紛争について法律の知識が十分にないと解決できませんので仕方なしに弁護士に依頼することになります。 ここで大切なことは当事者(弁護士からみれば依頼者ですね)は早く解決したいと思っている、弁護士に依頼する前に自分で解決策を模索してきたがだめだったから止むなく弁護士にその解決を委ねたということです。 何が言いたいかと言うと事件の当事者は解決の意欲が強くあり自分で解決する力もある程度持っているということです。 我々弁護士は当事者のこの意欲や能力をうまく引き出したりそれに力添えをすることだと思います。決して一方当事者をあおったり、感情をそのまま引き受けたり、紛争を殊更深刻化、複雑化させたりしてはいけません。 解決までのプロセスにおいて理論的に相手方を批判したり法的問題を突くことはありましょうが、それは依頼者のため少しでも有利な解決へ導くための手段にすぎません。あくまでも目標は事件の解決なのです。 又解決までのプロセスにおいて依頼者にやさしく、丁寧に接し続けなければなりません。 我々弁護士はこのような意識をもって事件解決にあたりますが、途中弁護士としても悩んだり、どうしたらいいかわからなくなったりもします。しかし一生懸命頑張ってなんとか解決ができるとそこに大きな喜びがあますし、仕事をやりとげたという充実感を味わうことができます。 前出の有馬藩の家老は農民の一揆回避に尽力しましたが藩にとって気に入らないところもあったのでしょう。後に蟄居を命じられ、病いの床に伏します。 このとき凌水はかけつけ治療にあたりますが残念ながら助けることができませんでした。死の間際に家老が凌水に残したのは「武士なんかなるものではない。お前はよか道を選んだのう」という言葉でした。以後凌水はこの言葉を励みに医療の仕事を続けました。 弁護士の仕事も困っている人達をお助けするのですから「よか道」です。私も「よか道を選んだのう」と言われるような仕事を続けていきたいと思います。 因みに小郡出身で幕末から明治にかけて医師として活躍した高松凌雲という人がいます。 この方は後に将軍徳川慶喜の御殿医となり、幕府代表団の一員としてパリ万博に臨んだのですが、帰国すると幕府はなくなっていました。しかし幕府からの恩を返すべく榎本武揚とともに函館戦争に参加し、敵味方の区別なく怪我人の治療にあたったことは有名な話ですが(この方のことについては吉村昭の小説「夜明けの雷鳴」に描かれています)この高松凌雲は凌水の子孫のようです。 |