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2018/08/07 | 弁護士松坂徹也のコラム(32)「明治150年(その1)」 |
明治150年(その1) 今年は明治維新から150年目にあたります。150年の節目の年にあたり明治以降現代までを、時折その前の江戸時代との比較をまじえて振り返ってみたいと思います。 明治に入って日本は劇的な変化をとげました。それまでの農業中心の国から工業、特に重工業の国へと生まれ変わり、あっという間に世界の先進国の仲間入りをしました。 欧米列強の植民地になる恐れすらあったのにそうはならず、逆に肩を並べるほどの国になったのです。 このように明治という時代は大きく日本を発展させた時代でした。 作家の司馬遼太郎はこの明治時代を高く評価しており3年間に渡って放送したNHKのテレビドラマ「坂の上の雲」でそのことを強調しています。 さて、明治時代はいいことばかりだったのでしょうか。 近代化によって国民の暮らしは江戸時代に比べて劇的に豊かになったのでしょうか。
江戸時代は農業中心の社会ですから、日照りや洪水による飢饉などで農作物が思うように作れず、一方で大名による年貢の取り立て(実際にそれを担ったのは庄屋や大庄屋ですが)が厳しく、餓死したり生活に困窮した人が多数いました。 一揆や打ちこわしなども多く起こりました。 商人や職人は農民ほどではなかったでしょうが、決して裕福ではなかったようです。 豊かな生活をしていたのは豪商ですが、その存在はほんの一握りですから社会全体として格差社会といえるほどのものではありませんでした。 武士も貧乏でした。その貧乏生活ぶりは山田洋二監督が撮った映画「たそがれ清兵衛」や「武士の一分」(原作はいずれも藤沢周平)によく表現されています。 大名とてその台所事情は決して豊かではありませんでした。参勤交代の出費は大変なもので、藩の財政を圧迫していたようです。 このように江戸時代はほとんどの人が貧乏でした。しかしこの時代の庶民はみんなで助け合いながら生きてきました。 恩返しや恩送り(たすけてくれた人にお返しをするのではなく、その恩に報いるため別の人をたすけるというもの)を大切な生き方としていました。現在とは全く違いますね。 このあたりのことは江戸時代の庶民の生活を描いた小説などに描かれています。江戸時代のこのような暮らしに比べると、明治時代の人達は経済面だけをみると生活が少しは楽になったといえるでしょう。 しかし明治時代は国民の生活の豊かさにはつながらない多くの資金を使いました。 そのため国民はそれほどに豊かになりませんでした。 その資金とは軍事費すなわち軍備費と戦費です。
江戸時代に話を戻しますと、江戸時代は戦争のない時代でした。約270年の間全く戦争がなかったのです。 先進国のなかで不戦の時代がこれほど長く続いた国は他に例がありませんから、江戸時代は本当に平和な時代だったんだなと思います。 徳川幕府が各藩の大名に参勤交代を命じて多くの費用を使わせ、軍備に費用をかける余裕を持たせなかったことと鎖国をしたことがその要因だったのでしょう。(もっとも徳川幕府のねらいは軍事的な謀反を防ぎたかったことにあったようですが。) 動機はともかく徳川幕府は戦争をしない平和な時代を築いたといえます。 武士は帯刀をし、剣術に励みましたが抜刀する機会はほとんどなく、そのかわり知性をみがくことにつとめました。 江戸時代の武士は学問に励んだのであり、そのなかから多くの国学者、晩年には蘭学者も生まれました。 幕末の桜田門外の変では、井伊直弼を守る幕府の武士と暗殺を企てる脱藩した水戸出身等の武士との間で斬り合いが行なわれました。いずれの武士も実戦経験がないことから刀の使い方に難渋したようです。 その状況は吉村昭の小説「桜田門外ノ変」に描かれています。
話を明治へ戻しましょう。 明治政府の政策の中心は「富国強兵」です。 工業、重工業を発展させ軍隊を強力にするというものです。そのため国は多くの資金を使いました。 そしてたくさんの戦争をしました。 戊辰戦争に始まり佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱、秋月の乱そして西南戦争などの内戦、その後の日清、日露戦争へと続きます。 多くの人が亡くなりましたし、お金もたくさん使いました。 日露戦争の折りにはロスチャイルド家から多額の借金をし、後にその返済に苦慮したようです。 日本専売公社が塩を独占販売し、その利益を借金返済にあてたようですが、利益を大きくするため原価が安い随分と粗悪な塩を作りました。 最近私たちが口にする塩はおいしいですが、私が子どもの頃に食した塩はその粗悪品の延長ですから、とてもまずかったのを記憶しています。 日露戦争後の講和のためのポーツマス会議では樺太の半分、遼東半島の一部割譲を受けましたが、賠償金はゼロでした。 これに怒った日本人は日比谷公園で暴動を起こし、全権大使の小村寿太郎は身の危険を覚悟しての帰国となりましたが、その理由には巨額の戦費捻出のため国民の多くが貧しい生活を強いられたことにもあったようです。 吉村昭の小説「ポーツマスの旗」はこのポーツマス会議の様子を描いています。 このように明治という時代はまさに戦争の時代であったといえます。武器を必要としない平和な江戸時代から軍備を増強し戦争をする明治へと移り変わっていったのです。
大正時代は大きな戦争はありませんでした。 しかしこの時代は関東大震災による甚大な被害が起きました。 東京、横浜及びその周辺の被害は言語を絶するほどの凄まじさで、多くの被災者が出ました。 吉村昭はその様子を小説「関東大震災」で詳細かつ克明に描いています。 しかしこの被災はその後、見事に復興されました。新しい街づくりの理念のもとこれまで以上の都市として再生したのです。 この復興には日本人のすごさを大いに感じさせられました。 関東大震災では全国各地から復興の手助けをする人が集まりました。関西方面から多くの料理人が集まり被災者に食べものをふるまったのですが、おもしろい現象も起きました。 それは関東と関西の食文化の融合です。 関西で「すき焼き」といわれたものを提供したところ、関東の人に大いに受けました。 関東で似たものとして割り下(醤油、みりん、だし等を入れて煮立てた汁)で味を付ける「牛鍋」というものがありましたが関東の人達は「牛鍋」より「すき焼き」がおいしいと思ったのでしょう。以降「牛鍋」はすたれてしまいました。 この東西食文化の融合は江戸時代にもありました。 それは「お伊勢参り」の機会にです。 江戸時代の多くの庶民は一生に一度の大仕事として伊勢神宮に参ることを目指していました。 しっかり働いてお金を貯め、伊勢を目指すのです。 料理人とて例外ではなく、伊勢には東西の料理人が集まり各自そこで料理の腕を競い合います。関東の料理人は関西の料理の、関西の料理人は関東の料理の素晴らしさに感動し、地元に帰った後それを参考にしてさらに料理の腕をみがくのです。 それまで関東の「てんぷら」のネタは魚だけだったのですが関西の影響を受けて、後には野菜もネタにするようになったそうです。
関東大震災に話を戻しますが、東京復興のなかで中央省庁を一ヶ所に統合しました。 それまで東京都内の各地に分散していた中央省庁は関東大震災後、現在の霞ヶ関に集約されたのでした。
次は昭和になりますが、大変な時代となった昭和については次回に詳しく述べたいと思います。 |