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2020/10/20 | 弁護士松坂徹也のコラム(36)「村社会」 |
村 社 会 安倍政権を継承するという菅政権、これまでの言動からすると安倍政権よりもっと強圧的な政権運営をするような気がします。 政権というものは政治を行うことの信託を受けた国民のために働くものですから、常に国民からの意見に耳を傾け、国民にとってより良い政治を行っていかなければなりません。又、立法府である国会での議論を大切にし、国民の代表である国会議員の批判にも謙虚に耳を傾け、真摯に政治に取り組んでいかなければなりません。 日本国憲法の根幹となっているものは国民による行政のチェックですから、これはまさに憲法問題です。 そのことの十分な認識があってこそ国民による国民のための政治が実現するのです。 そのように考えると異論というものはとても大切で、政権がこれに耳を傾けなかったり、異論が出せないようにしてしまうことはとても危険なことです。そうなってしまうと権力による権力のための政治になってしまいます。 菅政権は政権の方針に反する者は排除するという姿勢を示しています。 これは主に役人のことを言っていると思いますが、今回の日本学術会議会員候補者の任命拒否は学会にも手を出し、政府に異論を示す学者を日本学術会議から排除しようとするとしか思われません。このような態度はやがて独裁につながりかねないもので極めて危険です。
このような政治の方向性は昭和のはじめから終戦までの軍部を中心として続けられた国の動きと二重写しのように感じられます。 なぜ日本という国はこのように簡単に権力の思うがままに操られていくのでしょうか。 前回のコラムでは、国民主権、基本的人権、民主主義が国民、為政者の身についていないのではないかと書きましたが、そのほかにもあるような気がします。 最近の総理大臣の決定過程が問題点をあぶり出しています。菅総理は自民党少数の長老達が自分たちの都合を優先させて誕生させたようなものです。これは形式的にはともかく民主主義とは遠くかけ離れています。 今の時代でもこうしたことが平気で行われるということはどういうことなのでしょうか。 近代化される以前の日本の古い社会がそのままあらわれてきたような気がします。その社会とはいわゆる「村社会」と呼ばれるものです。 「村社会」とは同類が集まり有力者を頂点とした序列構造を持ち、厳しい秩序を伴う閉鎖的で排他的な社会と定義されています。批判をこめて「ムラ社会」と表記されることもあります。 この「村社会」は民主主義とは相反する社会ですから、そこに民主主義的なものの考え方が出てくる余地はありません。従って、政治の世界が村社会化してしまっては困るのです。 菅氏は主に自民党の二階幹事長と麻生副総理の長老2人によって安倍氏の後任総理に選ばれたのです。 そして2人を中心とするこの決定に自民党の他の有力者は逆らえず(石破茂氏は別のようですが)、2人の意のままに内閣総理大臣菅義偉が誕生したといえるでしょう。 ですから菅総理は長老の意には逆らえず、以降それに沿った政治を行うことになります。そしてそれに反対する者は役人も含め排除されていくのです。 野党議員を日本と日本人のため国会でともに議論をする仲間とはみず、都合の悪い事柄は無視し十分な情報の開示も真摯な議論もせず、国会ではあらかじめ用意した答弁の書面(これは役人が書いたものでしょう)を棒読みしてお茶を濁すだけですべてを数の力によって押し切ってしまいます。 これは「村社会」でなくて何なのでしょうか。 そしてこれは大変重要なテーマですが、国民の大多数がこのようなおよそ民主的とはいえない事態を特に問題視していないということです。 野党の支持率が上がらない原因はもちろん野党にもあるのですが、国民の多くが潜在的に自民党長老を頂点とする「村社会」にのみ込まれ、野党を批判するだけの役に立たない存在としかみていないと思われます。
今般の日本学術会議の会員候補者の任命拒否も同じような流れのなかにあるような気がします。 日本学術会議は国の機関であり、会員は公務員(特別職)です。 しかし日本学術会議は統治機構に組み込まれていませんから、その会員が政権とは別の意見を持っていたとしても権力の行使に何の影響もありません。又、その人選は人事として秘密にされなければならないものでもありません。 日本学術会議は「優れた研究又は業績のある科学者」のなかから選ばれる者を会員とし科学に関する重要事項を審議し政府に答申をしたり提言をしたりすることを目的とし、独立性が担保されています。 従って政権はその意見が政権にとって都合が良かろうが悪かろうが耳を傾けなければなりませんし、学者の研究を重ねたうえでの批判的意見が後に政権を成長させることもあります。 批判的な意見を持つ会員を排除することは政権のあるべき姿という観点からするとあってはならないことですし、むしろマイナスです。 日本学術会議は政権の行為に対するブレーキの役割を担っていますが、今回の任命拒否は政権がブレーキの効き具合をあえて弱くしている、しかも理由を明らかにしない問答無用の切り捨てと言わざるを得ないでしょう。 そのやり方こそ「村社会」における排除の姿勢そのものです。 日本学術会議は政府に対し様々な提言をしています。 今回の新型コロナウイルス問題の対応について政府は国民に新しい生活様式、営業や各種活動の自粛を求めています。又治療薬、ワクチンの研究開発をめざしています。 しかしこれはあまりにも場当り的、泥縄的な対応で事の本質をみていません。 何よりも重要なことは、なぜこれまで全くなかった新型コロナウイルスが現れて人類をこのように苦しめることになったのか、かたちを変えた新たなウイルスが今後又発生するのではないか、それらの発生は我々人間の生き方に問題があるのではないかと考えることではないでしょうか。 新型コロナウイルスはこうもりを第一宿主、センザンコウ(中国に生息するハリネズミのような動物で、鱗が漢方薬として有用だとして密漁されています。)を第2宿主にしていると言われています。 従って人間とこれら動物との間の距離が保たれていれば人類に感染することはありません。 それなのに人間に感染してしまったのは乱開発、自然破壊によって人間と動物の適正な距離が縮まってしまったことにあります。 日本学術会議の前会長山極寿一氏(京都大学前総長)は世界的なゴリラの研究者です。同氏は、あるゴリラ社会のなかで環境等の変化が起こり、これまでになかった新たなウイルスがゴリラに感染し、その社会のゴリラの生育に重大な支障が生じたということを新聞等で述べられています。 同氏が言わんとするところは、目の前のことに振りまわされることなく科学者の英知を結集し、物事を根本から考えなおさなければ問題解決にはならないということだと思います。日本学術会議ではおそらく新型コロナウイルスについてこのような議論や問題提起がなされたと思います。 日本学術会議は日本にとってなくてはならない重要な機関であると思います。 |