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2020/11/09 | 弁護士松坂徹也のコラム(37)「江戸のはじまり」 |
江戸は徳川家康が作った町ですから京都や大阪に比べて町のはじまりはずっと遅いです。 徳川家康はそこに新しい町を作るにあたり、数多くの工夫をこらしています。各地域に満遍なく水が行き渡るよう川や水路をたくさん作りましたし、大規模な開発も行いました。 まもなくして全国から多くの人たちが集まるようになり、そのなかから江戸の文化というものが生まれることになりました。
歌舞伎もそのうちの1つです。 歌舞伎の源流は女性によって演じられた出雲の「阿国歌舞伎」にあります。 これも江戸に移ることによって花開きましたが、17世紀の中盤には男が演じるようになりました。それが現在の歌舞伎の礎えとなっています。 日本最初の歌舞伎役者は中村勘三郎と言われています。 中村勘三郎家は当初猿若の姓を名乗っていたのですが、自らの芝居小屋が中村座でしたから姓を中村にし屋号も中村屋としたようです。 因みに歌舞伎役者の屋号の由来は営んでいた副業の店名にあります。 江戸時代の歌舞伎役者は現在ほど多くの収入はなく、多くの弟子やスタッフをかかえていましたから、多くの経費を必要としました。 一方、幕府の方針によって上演が中止になったり、自粛を求められたりしましたから、収入が定まりませんでした。 そこで安定収入を得るため多くの中心的役者が副業として店を持つことになりました。呉服、帯、扇子、足袋等を売る商売です。
この副業の店に由来するのが屋号ですが有名なのが高麗屋、音羽屋、大和屋、澤瀉屋、松嶋屋、播磨屋、成駒屋でしょう。 高麗屋は松本幸四郎、音羽屋は尾上菊五郎、大和屋は坂東三津五郎、澤瀉屋は市川猿之助、松嶋屋は片岡仁左衛門、播磨屋は中村吉右衛門、成駒屋は中村芝翫がそのなかでも有名な役者です。 中村勘三郎の中村屋は中村座という芝居小屋をもっていましたから副業を持つ必要はなかったのでしょう。 市川團十郎の屋号は成田屋といいますが、その由来は成田山にあると言われています。 團十郎の両親が成田山にお参りに行ったら子宝に恵まれたということで市川家ゆかりの成田山から成田屋という屋号を定めたようです。團十郎の人気は凄く常に多くの収入があったようですから副業はいらなかったのでしょう。
歌舞伎は当初は幕府からあまり良く思われていなかったようです。歌舞伎の発展は吉原の遊郭とともにあり、又役者が男色の対象となることもありましたから、当時の役者の社会的評価は低く傾木と揶揄されていたようです。 そこで現れたのが初代市川團十郎です。 このとき中村勘三郎はすでに三代目となっていましたから中村屋とは50年近くの差があります。この「團十郎」、当初の名は「段十郎」でしたが、だれかが間違えて幟に「團十郎」と書いたことから、以降その字を使うようになりました。なお、初代團十郎の実名は海老蔵でした。 市川團十郎が演じる芝居は荒事です。 声を大きく大げさに見得を切るのが特徴でしたが、そうなった理由は、男色の対象の明確な否定にあったと思われます。 團十郎と名乗る役者は歌舞伎界のなかでは飛びぬけた存在でしたから各界で突出した人を「___界の團十郎」と評されることがあります。 戦時中、新劇界の團十郎と呼ばれた人に丸山定夫という俳優がいます。 移動演劇桜隊の隊長として広島に慰問中、原爆の犠牲になった人です。個性的な俳優だったようです。 この桜隊のことは井上ひさし作の演劇「紙屋町さくらホテル」に描かれています。政界の團十郎と呼ばれた政治家を御存知ですか。それは安倍晋三氏の大叔父佐藤栄作氏です。彫りが深く、目鼻だちのはっきりした強烈なイメージの方でした。 團十郎が世に出て以降、歌舞伎は江戸の庶民にとってかけがえのない娯楽の対象になりました。江戸には大小様々な芝居小屋がありましたが、そのなかで特に有名なのが、中村座、森田座、市村座でこれを江戸三座といいました。江戸三座は官許座ともいい江戸町奉行所より興業特権を与えられていました。 江戸といえば火事ですね。江戸の住宅は隣家と密接して建っていますし、すべて木造ですから、一たび火が出るとあっという間に燃え広がっていきます。 そのため芝居小屋も何度も消失しました。その度に新しく建てかえられましたから江戸の庶民の芝居熱、それに応える座元の就念、財力には目をみはるものがあります。江戸三座は明治のはじめまで続きました。 役者の取りまきには荒くれ者が多くいたようです。二代目勘三郎は毒殺されていますし、初代團十郎は舞台のうえで刺殺されています。熱狂的な江戸っ子の世界には危いものがあったようです。
さて、これまでは江戸での歌舞伎のことを書きましたが、ついでに上方の歌舞伎についても触れておきたいと思います。歌舞伎は京都、大阪の方が江戸よりも先に演じられています。 歌舞伎の題材は人形浄瑠璃に由来するものが多かったからでしょう。 大阪では人形と義太夫と三味線、三位一体の人形浄瑠璃が早くから芸能としてその地位を確立していました。 文楽座、豊竹座、竹本座などの芝居小屋(現在の大阪、道頓堀のあたりにあったようです)で演じられていましたが、そのうち人形を使わずに生身の人間が演じた方がリアリティがあっていいのではないかと考え、そうしはじめたところ、これが大受けし現在の歌舞伎へとつながったようです。 上方歌舞伎といえば片岡仁左衛門の松嶋屋が代表的ですが、京都、大阪で歌舞伎を続けるのは難しいとして現在は拠点を東京に移しています。 そういうわけで先代の仁左衛門は関西なまりで話します。(「男はつらいよ。寅次郎あじさいの恋」に先代仁左衛門が出演しましたが関西弁の語り口が印象的でした。) もう1人上方歌舞伎で有名な人がいました。坂田藤十郎です。 現在の坂田藤十郎は参議院議長もつとめた扇千景の夫で、前の名を中村鴈治郎、その前は中村扇雀でした。初代團十郎は若かりしころ、上方に行った機会にすでに有名だった坂田藤十郎を訪ねたようですからこの名跡も相当古いですね。 さて、江戸では17世紀中盤あたりから歌舞伎が庶民の娯楽のなかで大きな地位を占めることになり、脈々と続いてきたのですが、常に順風満帆というわけではなかったようです。 幕府の政策によって上演できなかったことが度々ありました。小屋が火災で使えなかったこともありました。それでもなんとかしてしのぎ今日まで続いています。江戸文化には色々とありますが、歌舞伎はそのなかでも終始中心的な地位を占めてきました。 |