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2021/01/26 | 弁護士松坂徹也のコラム(38)『「世間」と「社会」と「法の支配」』 |
劇作家・評論家の鴻上尚史氏は、人間とまわりの人達との関係には「世間」と「社会」があると述べています。
鴻上氏によると、世間というのは、一定の縁があるなどして関係が近く身近な人との関係、社会というのはそれ以外の人達との関係。 電車の乗客に例えると、一緒に行動し一緒に同じ電車に乗って隣り同士に座ったりする人との関係は「世間」、たまたま隣り合わせに座った人との関係は「社会」、居酒屋の客同士で言うと、一緒に居酒屋に行き席を囲んだ人との関係を「世間」、背中合わせになる隣のテーブルの人との関係は「社会」というわけです。
これを法律に携わっている者の観点から評釈すると、世間とは、法ではなく義理や人情、愛情や友情、道徳や条理というものに支配されている関係で、そこには法は不要です。 一方、社会は無縁な人との関係ですから、法の支配というものが必要な関係ということになるのでしょう。「世間」については、「世間に申し訳がたたない」「世間が許さない」というような言葉の使い方に実情が反映されます。
世間について別な観点から言えることは、ある人が法に違反することをしたかどうかよりも、その人がみんなに好かれているかどうか、みんなにいいことをしたかどうか、その人を法に基づき厳しく追及するよりも諸般の事情を考慮して特段事を起こさない方がいいという関係も「世間」ということになるでしょう。この「世間」というものはやっかいなもので、「世間」の一員であることによる連帯意識、共同体意識を持つということになりますが、一方でその「世間」の集団的圧力に支配されることにもなりかねません。 第二次世界大戦中の隣組(となりぐみ)や国防婦人会の圧力というのは悪い例の世間でしょう。特攻隊で死を選んだ(選ばされた)航空隊員も同じような例でしょう。又、最近の例ではラグビーワールドカップ以降、流行語となった「ワンチーム」という考え方も、扱いを間違えると連帯意識・共同体意識を殊更強要することになりかねませんので要注意です。私は「ワンチーム」という言葉はあまり好きではありません。このように「世間」というもの、その根底にあるものは法の支配とは全く別の人間同士の関係ということになるのでしょう。
さて、この「世間」「社会」を頭の中に置いて政治の世界を考えてみましょう。色々な問題が浮かび上がってきます。
私達国民は選挙で国会議員を選びますが、候補者とは付き合いはありませんから、この行為は法の支配に基づく「社会」のなかでの行為ということになります。候補者が属する政党と国民との関係も同様に「社会」ということになるでしょう。内閣総理大臣は国会議員の中から選ばれますから、国民と内閣総理大臣、国務大臣との関係も「社会」ということになります。そうなると、そこに介在するのは法の支配だけということになります。政治の世界に「世間」は出てくる余地はありません。 菅総理は就任時の所信表明演説で政権運営にとって重要視しているのは「自助、共助、公助」そして「絆」といいました。自助、共助、絆は国民1人1人、国民と他の国民との関係性に関する言葉ですね。ですから、そこには「法の支配」は入り込みません。この関係性はまさに「世間」であって、法の支配が基盤となる「社会」とは全く別物ということになります。憲法議会制民主主義、基本的人権の確保というものが表に出ることはないのです。総理大臣が国民に向けて法の支配ではなく「世間」というものに立脚した政治を目指すと言っているのに等しいもので、あきれるばかりです。一国の総理大臣がこのようでは日本の政治の将来は暗黒と言わざるを得ません。 日本学術界の会員選任拒否にもこの問題がそのままあてはまります。法の支配のある「社会」では日本学術会議法に規定された事由にあたる場合にしか任命拒否はできません。日本学術会議の会員は(特別職)公務員です。公務員の規定及び罷免は国民固有の権利であるとの憲法15条の規定がありますが、統治機構上指揮命令関係にない特別職公務員にそのまま適用されるというものではありません。 ですから、今回の任命拒否は法によるものではなく、政権にとって好ましくない人を前例踏襲を改めるというもっともらしい理由をつけて拒否するというものです。まさに法による任命拒否ではなく、「世間」の論理による任命拒否と言わざるを得ません。
新型コロナウイルスの対策でも「世間」の論理によるものが多くみられます。政府がやっていることは、手洗い、うがいを実践しましょう、不要不急の外出を控えましょう、新しい生活様式を守りましょう、自粛をしましょう、感染防止に協力してくださいというばかり、そうしないと経済にマイナス影響が出てきますし、経済効果が極めて大きなオリンピックもできなくなりますよ、日本人ならば日本のために協力すべきでしょうというもので、「世間」というものを大切にしてきた日本人に抵抗少なく受けいれられやすいことを要求するばかりで、「社会」を守るべき政府としての毅然とした法の支配による政策が全くみえません。現時点では、もはや世間の論理だけでは終息に向かうのが困難になっていますから、コロナ禍問題の解決は全く先がみえない状態になっています。これは失政以外の何物でもありません。 こういう風に考えてみると、「世間」と「社会」との区別をはっきり意識すること、そして「社会」を守るのが政治であることの重要さが浮き彫りになってくると思います。菅総理大臣の誕生も自民党内の「世間」の論理によるものと思われますから、そのような論理が生まれてくるのも当然といえば当然でしょう。このような土壌は前回述べました「村社会」が根底にあると思います。第二次世界大戦の悲惨な結末もすべてこの「世間」の論理「村社会」に基づく戦争追行にあったと思われます。人間なかなか歴史に学ばないですね。 |