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2022/06/07 | 弁護士松坂徹也のコラム(47)「陸上男子400メートルリレー」 |
陸上男子400メートルリレー
東京オリンピック、パラリンピックが終了いたしました。開催については否定的な意見が相当ありましたが、それにもかかわらず開催が強行されたといえるでしょう。 オリンピックの意義について色々と考えさせられましたが、終わってしまった今となっては、投じられた多額の費用が国民に重くのしかかってくる事実、一方でこのオリンピックで多額の利益を得た企業もあるという事実(この利益を生むシステムを祝賀資本主義というそうです)、これから赤字の負担について国と東京都の間でバトルが展開されるであろう事実を無視することはできません。 とはいえ、選手のこれまでのひたむきな努力、示されたパフォーマンスのなかには感動的なものが数多くありました。しかし一方で、勝利至上主義、メダル至上主義、過剰なナショナリズムには考えさせられるところがありました。そのなかでも、陸上男子400メートルリレーには大きな違和感を感じました。この種目、前回のリオデジャネイロオリンピックでは2位でした。陸上の短距離は、日本人が世界の記録レベルから最も遅れている種目ですが、2位の大健闘でした。選手個々の走力は外国人選手にはとてもかなわないのですが、バトンをつなぐ際のスピードの低下を極力抑えることによって、走力の差を補い、これまで上位を占めてきたものです。これは、いい戦術をたて、努力をしてそれを実行するという日本人の得意分野ということでしょう。 今度のオリンピックは自国開催ということもあり優勝を狙いました。そして、国民の多くもそれを期待しました。もちろん、選手、コーチはじめ関係者はそれへ向かって最大限の努力を重ねたと思いますが、一方で大きなプレッシャーを感じたことでしょう。そして、優勝へと向かうため前回よりさらに高い戦術を企画しなければなりませんでした。バトンタッチ戦術を極限まで極めなければならないということです。バトンを渡す走者のスピードをぎりぎりまで維持し、バトンを受け取る走者の受け取り時のスピードを最高に近い状態まであげて受け取ること、そしてそれを「テークオーバーゾーン」内でやってしまわなければならないことです。これにはルール違反という大きなリスクが伴います。日本の選手は果敢にこれに挑みました。 しかし、結果は大失敗で、第3走者の桐生祥秀選手はこの種目のみの出場でしたがバトンを手にすることも走ることもできませんでした。この結果について、選手の1人は「勝負にいった結果」と言って悔しがったものの、スポーツに参加するものとしてこれでよかったのだろうかとの反省の弁は誰からも聞かれませんでした。 私は、これらのことについてオリンピックに出場し競うということ、そこにあるスポーツの意義を考えると、この結果、この戦術について疑問を感じています。 日本チームがなぜこのような戦術をとったのか、それはこれまでこの戦術で力の差をくつがえし、いい成績を納めてきたという成功体験があり、それが今回も実現できると思ったことにあると思われます。それにこの戦術は非常にリスクが高いものですが、あえてそれに挑んだ、それだけでなく前回よりもさらに高いリスクを選んだということがあります。この選択は失敗する可能性が極めて高いのですが、その最悪の事態について失敗はしないだろうという根拠なき楽観主義に陥っていたのではないかと思われます。これがこの戦術の立案とその実行ということになりますが、結果は奇策、大博打を打ったものの失敗に終わったというものです。 リレーですから、バトンを渡す技術を磨き、それを競うのも、もちろん大切なことですが、度を超すと問題だと思います。純粋であるべきスポーツの世界で結果のみにこだわり、奇策、大博打を打つことはどうかということです。 勝利至上主義、メダル至上主義に走るあまり、スポーツ、アスリートの真の喜びや美しさとは相容れないものに向かってしまうのではないかという問題でもあります。今ではこんなことを言う人は少ないですが、近代オリンピックの父と言われるクーベルタン男爵が行った「オリンピックは勝つことではなく参加することに意義がある」ということに明らかに反します。決勝で走ることができなかった第3走者の桐生選手、第4走者の小池祐貴選手はさぞかし無念だったことでしょう。 このようにみてくると、4年に1度、世界中のアスリートが集い、これまで磨いてきたもの、鍛えてきたものを競うはずのオリンピックは勝利至上主義、メダル至上主義にゆがめられているとしか言いようがありません。 オリンピックそのものが、本来の目的を失い、商業主義、国威発揚に走り、本来あるべきスポーツの素晴らしさ、スポーツはアスリートの人間形成に寄与するもの、スポーツはアスリートの若き日の1ページというキャリアにすぎないこと、その後にこれまでの経験を生かしたセカンドキャリアでさらに人間性を磨くということに逆行していると思います。IOCの存在意義から考えなおしてみる必要もあるでしょう。 それから、前記したこのレースでの日本チームの「成功体験をもう一度期待する」「最悪の事態を想定しない」「根拠なき楽観主義」「奇策による大博打」は、過去に日本がおかしてきた過ちに通じるものがあるような気がしないでもありません。それは、太平洋戦争に突入する日本軍部が犯した過ちです。戦力でアメリカ軍にはるかに及ばない日本軍が奇襲ともいうべき真珠湾攻撃を仕かけ、最悪の場合、日本人に多くの死者が出ること、国が滅びてしまうことがありうることを考えず、そのうちなんとか終戦の合意に至るだろうと根拠のない楽観主義に陥り、その結果、泥沼の太平洋戦争を4年近く行い、その間に多くの死者を出し、国民を苦しませたことと共通する面があるような気がします。400メートルリレーの選手は、リオデジャネイロオリンピックでは4人が刀を抜くポーズを取りながら競技場に入場してきました。そして、今回のオリンピックではこの4人を「リレー侍」と言っていました。これはどうなのかということとあわせて考えてみる必要があるように思われます。 |