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2022/06/07 | 弁護士松坂徹也のコラム(48)「人間の五感」 |
人間の五感 新型コロナウイルスはいまだ終息には至っていませんが、長い期間に及んだコロナ禍のなかでの生活は、私達に色々なことを考える機会を与えてくれました。そもそも人間が生きるうえで、生活するうえで基本的に大切なものは何なのか、今後これらはどのようになっていくかということです。 まず人間の誰もが持っている五感の観点から考えてみたいと思います。 人間には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感があります。この感覚は人間だけではなく他の生物にもあり、生物によって強度に差異があります。例えば、鳥の視覚、動物の嗅覚は人間のそれとは比べものにならないほど強力です。 五感そのものではないですが、人間には他の生物にはない、視覚、聴覚に関連する情報等を得る媒体のようなものがあります。それは言葉と文字です。言葉は、人間が口から発し、相手方が耳で聴くもの、文字はそれらを紙等の媒体に示すもの、聴覚、視覚にかかわるものです。言葉は、人間と人間とのコミュニケーションを作りあげるのに有用なツールで、文字は人間の思想や哲学を表現する手段につながります。人間はこれまで五感や言葉、文字を存分に使って豊かな生活を維持してきましたが、コロナ禍のなかで大きく制限されることになりました。 五感というものの大切さをもう少し具体的に考えてみたいと思います。 まず、視覚です。人間が人と接するとき、その人の目、鼻、口をみてその人の顔というものを認知します。次に、その人が話すときの表情、話しぶり、話すときの目や口の動き、口元の笑みなどをみて、その人が今どんな感情を持っているのか、何を考えているのかを認識します。 次に、聴覚ですが、これによって話す人の考えや意見、意思というものがわかってきますし、聴こえてくる声の具合、話しぶり、声の大きさによってその人のその時点での想いなどをさぐることができます。 さて、現在の私達の生活はどうでしょうか。 家庭内での生活以外の日常のほとんどがマスク生活ですから、初めて会った人の顔を憶えることはなかなか難しいです。又、相手の表情などが十分に見えませんので相手のそのときの感情を読みとることができません。声についてもマスク越しですから、聞き取りにくいことがありますし、声の具合から感情を読み取ることも難しくなります。 最近、リモートによって会議等を行いますが、これは直接のものではありませんから、視覚、聴覚の充足度は下がりますし、マスクをつけて行われる場合には、さらに状況は悪くなります。 次に、嗅覚と味覚ですが、外で飲食する際マスクを自由にはずせない、大きな声で話せないなど、制約がありますから、これらの感覚は十分に発揮できません。黙食というテーマが示されたことがありますが、それはこれらの感覚をさらに減らします。食事とは、楽しむものであり、一緒にいる人との会話を織り交ぜながら、食事をすることにその歓びがあるものと思います。 次に、触覚です。これが一番大事なことです。触覚とは、触れて感じることです。人間が生まれて最初に感じるもので、感覚のなかでは最も豊かと言われています。新生児は、生まれてすぐに裸のまま母親に抱かれることから、この豊かな感覚がすぐに身につくのでしょう。この皮膚感覚は、人間の感覚のなかでとりわけすごいものです。 膚と膚を触れ合わせるのは、ハグすることがその典型ですが、奥ゆかしい日本人はあまりそれをしません。しかし、日本人はそれに代わる五感を総合した独自の感性をもっています。 それは何かというと、人間同士の控え目であるが、そこに信頼や敬意などの思いを込めた態度、動きでしょう。日本人は欧米人に比べ口数も少ないし、表情も豊かではありませんが、それを補う、そして大切にしているコミュニケーション術を持っています。それは、両者間の距離感、そしてその距離のなかでのお互いのアンテナのようなものの触れ合いではないでしょうか。 我々はよく皮膚感覚、あるいは膚感覚、手触り感、当事者の熱量、込められた織り成す思いなどという感触を大切にしています。この感覚は、触覚そのものではありませんが、それに近いものでしょう。これに、視覚や触覚が相まって総合的な感覚となります。コミュニケーションのとり方としては直截的ではないですからあまりいいことではありませんが、以心伝心、あうんの呼吸、目くばせというものもそれにあたるでしょう。そして、この感覚が生まれ、それが保たれるのは当事者の距離のとり方、あまり近づきはしないけれども離れないという距離感がとても大事になってくると思います。ある人とのこれまでの関係を改めることを「距離を置く」と言いますが、この言葉がそれを示しています。何事にも控え目で、ストレートではない日本人にとっては、この距離感のなかで生まれる感覚、別な言い方をすると、他者の温度を身近に感じる感覚は、人と人とのコミュニケーション、意思の伝達、それへの理解など人間が人間社会のなかで生きていくうえで不可欠なような気がします。これも皮膚感覚に近いもので、そこで得られたものを共感力と言っていいのかもしれません。 そこで、コロナ禍のなかでこの感覚はどうなっているのでしょうか。まず、ソーシャルディスタンスと言われているこれまでとは異なる人と人との距離のとり方、密集、密接の回避、マスクの使用や黙食、画面の映像とスピーカーから出される声によるオンライン会話が中心となっている私達の現在の生活や仕事、これは五感の働きに制約がかけられた生活で、人間らしい生活とはいえないでしょう。又、コロナ禍のなか、家から外に出ること、とりわけ人間にとって必要な、変化のある非日常とも言うべき世界へしばし入ること、例えば、映画を見に行くこと、美術館に行くこと、音楽会に行くこと、いっときの人との触れ合いを求めて居酒屋やバーになどに行くこと、これらも人間生活では必要なことですが、それもままなりません。このことについて、感染症対策と経済活動の両立の名のもとに、事業者側への金銭的な援助や補償ばかりが語られ、人間にとってお金以上に大切なことへの問題意識に基づいた対策はあまりとられていません。 人間にとって五感というものがいかに大切であるか、一方で現状はコロナ禍のためそれが大きく損なわれています。このような状態が長く続くことは、人間の生活にとって、若い人達の今後の成長にとって又お年寄りの老後の快適な生活にとってマイナスであることを認識する必要があると思います。感性が退化したり、それが育たなくなってしまう恐れがあるからです。 五感のうち視覚と聴覚を失いながら、家庭教師の懸命の指導と本人の並々ならぬ努力のもと社会生活を送れるようになり、後に社会福祉活動家として一生を送ったヘレン・ケラーという人がいます。その人と家庭教師を主人公にした「奇跡の人」という1962年の映画があります。2人の苦労と頑張りを描いた映画ですが、この映画からも五感がいかに大切であるかを学ぶことができます。この映画の監督は、後にアメリカンニューシネマの代表作「俺達に明日はない」などを作ったアーサー・ペンで、ヘレン・ケラーを演じたのはパティ・デューク、家庭教師役アニー・サリバン役は、アン・バンクロフトでした。アン・バンクロフトは後に、これもアメリカンニューシネマ「卒業」でサイモンとガーファンクルの挿入歌で有名なミセス・ロビンソンを演じています。又、この「奇跡の人」は現在でも大竹しのぶや高畑充希の主演で舞台で演じられています。この作品が人間に示唆するものが大きいことから、長く演じられているのでしょう。パティ・デュークもアン・バンクロフトもすでに故人となられています。 コロナ禍のなかでの学校生活は、生徒にとっては学びの場、生徒同士や教師との間の触れ合いの場を損なっていますし、大学生にあっては学びそのものもさることながら、大人としての第一歩を踏み出すなかで、これまで接することがなかった日本各地から来た若者とのコミュニケーションの確立と直接の議論の場を喪失させています。これは人間形成にとって大きなマイナスといえるでしょう。年輩者にとっても活動の制約による刺激の喪失は、豊かな老後を送ることに大きなマイナスを与えています。 感染防止策の対極にあるものとして経済の活性化ばかりが指摘されていますが、それよりも大切なものがあることを十分認識する必要があると思います。 新型コロナウイルスには終息の気配があります。それはそれでとても嬉しいことですが、ここで提起したことはその後も考え続けなければならないと思います。 |